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「早慶戦」はなぜ、「慶早戦」ではないのか

今日の慶早戦、我が慶應が勝ちましたね。あと一つ勝てば春季リーグ優勝ですね。
さて、「早慶戦」はなぜ、「慶早戦」ではないのかについて調べてみました。
と言うか、2012年5月15日付け日本経済新聞の記事を要約してみました。

 記念すべき第1回早慶戦は1903年(明治36年)11月21日、早稲田が送った挑戦状に慶応が応える形で始まり、この時の試合は11―9で慶応が勝利しましたが、テレビインターネットの無いこの時代、新聞2紙が小さく伝えた程度で、それぞれ「慶応義塾対早稲田大学野球試合」「早稲田大学(改行)慶応義塾 対校野球試合」という見出しで、この時には早慶戦と言う言葉は使われていません。

 早慶と言う言葉が初めて新聞に載ったのは、1905年に都新聞(現東京新聞)が11月9日付で「早慶野球仕合」という見出しを使用し、早稲田と慶応を「早慶」と略した第1号である可能性が高いと思われます。

 早慶戦の初出とみられるのが10年11月24日付東京朝日の「准早慶戦」の見出しですが、これは正式な早稲田対慶應の試合ではなく、OBによる試合でした。
慶應対早稲田の試合は、1906年秋の対戦が1勝1敗となった時点で応援合戦が過熱し、一触即発の状態となって第3戦が中止となり、以後1925年(大正14年)秋の東京六大学野球連盟創設とともに再開されるまで19年の空白期間が生じた経緯があるからです。代わりに組まれたのがOB主体のチームなどによる試合でした。
 ちなみに、試合が中止となったのは、早稲田側が応援団員の人数を守らなかったことが中止の発端と言われています。この事件を載せた9紙の見出しのうち、「運動界の恨事」という1紙を除いた8紙が「早慶野球事件」「早慶第三回戦中止」などと早慶を使い、この頃の新聞用語では、既に早慶と呼ぶのが基本だったと思われます。

慶應対早稲田の試合が復活した1925年以降、ほとんどの記者が慶応出身だった時事新報でさえ「早慶戦」を使い、この頃は新聞のみならず世間一般でも早慶の順番を動かし難いほどに早慶戦という表記が定着していたと考えられます。しかし、慶応の「与党」たる時事新報までもが早慶戦を認めなければいけなかったのはどうしてかという疑問は残っています。

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